画像

徳源寺

本尊

釈迦牟尼仏

中央位牌

今上天皇陛下

左位牌

東照大権現

徳川家2代~5代将軍

右位牌

徳川家6代~15代将軍

酬恩殿

聖観世音菩薩(六軒町観音寺本尊伝空海)

本山

京都市右京区花園妙心寺

開山

勅諡圓満護国禅師賢宗祖鑑大和尚(応安元年1368年)
(ししえんまんごこくぜんじけんじゅうそかんだいおしょう)

成り立ち

建久4年(1193年)に鎌倉幕府を開いた源頼朝公が冨士奈須野原に御巡狩の時、阿野荘浮島が原に陣屋を建てられた。(現在「御殿場」という地名として残っております)
北条貞時の時陣屋を寺に改め「今律寺」と名づけられ国家安寧・武門長久の祈願寺となる。
その後鎌倉円覚寺開山仏光国師(無学祖元禅師)と共に来日した帰化僧賢宗は、北条時宗の帰依を受けて弘安元年(1278年)安泰山徳源護国禅寺を建立し鎌倉幕府の護国寺・朱印地として創建しました。徳源寺開山賢宗祖鑑禅師(応安元年1368年)は、円覚寺建立に尽くされ、その功績により後光厳上皇より勅諡号圓満護国禅師と紫衣を賜っております。

戦国時代

応仁年間(1467~) 原町に大火徳源寺焼失

1470年 徳源寺再建

今川家官寺善得寺

鎌倉円覚寺の大勲策禅師が那須雲巌寺より来て1363年須津に庵を結び天寧寺となづく。関東管領上杉憲顕は瀬古村(今泉村)の西に大勲策禅師を迎え善得寺を建てる。
五世舜琴渓の時、二人の優秀な弟子ー承芳今川の家督を継ぎ今川義元となった承菊太原宗浮(雪斉長老)清見寺臨済寺開山。善得寺栄える。

今川←→北条*武田 武田信虎の娘が義元の妻へ対面する

太原雪斉と建乗和尚か仲介 善得寺会談 義元今川家の家督を継ぐ

善得寺末寺

天寧寺(須津)、真如寺(阿野)、青龍庵(阿野)、大川寺(阿野) 徳源寺(原)、大中寺(沢田)、瑞松庵(原)、松隠庵(原)、興禅寺(深良)、円通寺(富士)

大平郷6ヶ寺

幽洞庵、臥龍庵、得楽寺、鷲桂庵、光厳寺、向岳寺

以上16ヶ寺

善得寺末寺時代

徳源寺には、現在円覚寺派・善得寺時代の資料は、原町の大火・戦乱に巻き込まれたためほとんど残っていない。

この時代伊奈備前守による検地による寺領の確定

古郡孫大夫家(富士川雁堤)との結びつき

雁堤(かりがねつつみ)

静岡県富士市に位置する。江戸時代初期、富士川の氾濫を治めるために築堤された。中里村の古郡孫大夫重高は、元和7年(1621)岩本上に1番出し、2番出しといわれる突堤を築き、その子重政ー重年の三代にわたる50余年の歳月と莫大な経費、そして治水の工夫を結集して完成し、以後富士川の氾濫から守られた加島平野は、「加島5千石の米どころ」ともいわれる豊かな土地に生まれ変わったのでした。18代古郡孫大夫重高は、原の今川上総直属下の安間左金吾尉孫十郎橘重嗣の子で古郡家へ養子となった。その重高公(政次)が徳源寺再建の開基となっている。父豊後守信重・母の供養の塔が徳源寺に建てられている。

過去帳第一巻 古郡家十八代古郡孫大夫政次が徳源寺再興の開基

豊後守信重(孫大夫父)

  • 古郡家十八代古郡政次 号を重高 駿東郡原郷に生
  • 今川上総直属下の安間左金吾尉孫十郎橘重嗣の男子が養子となり中里村に居して古郡家跡目相続する
  • 家紋は丸に二之字なり 東町大石呉服店の処 居住

妙心寺派以降の徳源寺

承應3年(1654)妙心寺派中本山興津清見寺6代4世得巌宗髄禅師を勧請準開山に拜請し弟子の松巌宗密禅師を準開山とし清見寺末寺となり妙心寺派となりました。
江戸時代には、徳川家光公以来修復料百両と寺領14石の朱印状を賜っています。東海道の要地にあるため、常に時の権力の下にあったお寺と言うことができます。

(寛政2年1770年徳源寺)

白隠禅師との関係

白隠禅師14歳(1698)均首座に依って句雙紙を習う。

11世性山祖竺和尚白隠禅師出家の時「三顧の摩」の偈で祝す

12世東方祖均和尚白隠禅師の禅の修行の道先案内の役目をする

白隠23歳徳源寺に越後から紹岩玄隆という男がやってきた。慧鶴と同年代だった。話の中で、越後英巌寺黄檗二世木庵下の慧極道明下の長首座という者がいて会ってみたいと思い越後高田の英岩寺へ向かう。その英岩寺で鐘声を聞き豁然として大悟することとなる。
徳源寺の開山は、中国からの渡来僧であった。黄檗系の禅士が来山しても不思議はない。徳源寺には、「黄檗僧独立性易禅師」の書『安泰山』の山号書がある。白隠禅師は、黄檗隠元禅師の法に触れたいと思ったと推測する。

黄檗僧独立性易禅師

中国明末に生を受け1653年明朝滅亡の時長崎に渡来。隠元禅師に請うて興福寺にて得度し、儒者であったが仏門に帰依。漢詩、書、篆刻水墨画などが高く賞賛された。「日本篆刻の祖」として称揚される。医術にも長けていました。噂を聞いた、老中松平信綱公より平林寺に招かれた。途中、徳源寺に立ち寄った書であるように思える。

黄檗僧 独立性易禅師真筆「安泰山」

白隠禅師42歳(1726)秋7月1日、盂蘭盆会に先立ち看経榜を掛けた

徳源寺の東方祖均の助言で「法華経}を読むことし、毎日多くを訓読した。

一夜、読み込んで譬喩本に到った。おりしも縁下でコオロギがしきりに鳴いている野を聞いて、豁然として「法華経」の深理にに契当した。ここにおいて、若い頃に起こした疑惑がはらりと消え去り、これまでの多くの悟解が大いに錯っていたことを覚ったのである。

延亨2年年(1746)原の大火。徳源寺焼失

・十五世衛川禅行和尚再建 本堂・庫裡現在に至る

明治初期まで、清見寺原会合の第1位の寺院であった。

妙智山観音寺

元文元年(亨保21年1735)11月、原東町の植松本家分家菱屋の2代目植松季統(閑汀睡鴎居士)が20歳にして夭折した弟藤四郎(真巌是性信士)と亡父定房(瞥峰玄枢居士)冥福のため、原の西町の西端にあった古寺の旧趾に堂宇を構え、妙智山観音禅寺となし白隠禅師を請じて入仏安座の供養を行いました。明治維新の時廃寺となり本尊仏像は植松家菩提寺徳源寺に写されました。
徳源寺では、以来1月・5月・9月の17日に観音講を地元の方々と共に行って来ております。

~ 観音寺僧堂梁牌の銘 ~

白隠禅師52歳書

〔訳〕元文元年11月、植松季統が亡父および亡弟の冥福を追修し、その折に妙智山観音寺の跡に小さな僧堂と侍者寮を造立した。落成し入仏安座の日、その始末を記し一偈をのべる。
 孝子伝には、その孝心が天を感ぜしめ、あるいは錦囊を降らし、紫石や金釜を現したり、氷が割れて魚が採れるようになったりたり、寒中に筍が採れたり甘泉を湧き出したりとさまざまな奇端があったと記す。これらの話は、みな存命中の親を喜ばすものであるが、親が死して後、来世の冥福を祈る好孝にくらべれば、格段の差があるというものであろう。
 植松季統は、弟思いの、父に孝を尽くす学問好きの男である。今歳元文元年の夏、その父が亡くなり、6月下旬には相次いで弟の者英も亡くなった。どうしてこうも早く逝ってしまったのか、まだわずか20歳である。大人しくよい性格で、いずれは良い人と交わり大人物となったであろうに。親兄弟みな可愛がっていたが、ことに両親は玉のように思っていたのである。
 老いも若きも村中の者たちはその夭折を惜しみ悲しんだ。植松家の悲しみは想うに余りあるものである。ここに僧を請じて追悼の法要を行い、施餓鬼会を執り行った。
 時に西原に一寺あり、久しく廃寺になったままであった。昔は観音妙智の寺額がかかっていたが、今では松も枯れ……今は亡き植松定房は長年この寺を復興したいと思っていたが果たさずに亡くなってしまった。倅の季統が故人の遺志をついで小さな禅堂を作り再び観音大士をおまつりした。大士像は弘法大師自作ということである。
 これよりのち、この庵に住する者は、誦経し坐禅につとめ、そのお気持ちに思いを致せよ。そうすれば、その冥助によって道業も次第に成熟し四智円明となるであろう。もっぱら祷るらくは、泉下の(戒名)この善根力によって自性の金蓮台に坐しまさなんこしとを。また祈る本師釈迦牟尼仏、本尊観音菩薩のご加被によって植松家の子孫がいよいよ綿々たらんことを。

白隠記す

宝暦年間、「原宿の大火」あり。ひが延焼し西端の観音寺橫で消火した。

村人は喜び、三尺坊を観音寺にまつることとした。

~ 秋葉三尺坊入仏塔婆の銘 白隠禅師 ~

〔訳〕宝暦5年秋、妙智山観音寺に秋葉三尺坊の像をお迎えして法要を行った。
さぞ本尊観音大士の眠りを覚ましたことであろう。この本尊観音大士像は弘法大師と伝わる。先に観音寺再建のとき植松氏が観音像をおまつりする仏壇をこしらえたが、その脇に村のものたちが小石で台を築いた。
 ここに安置して観音大士と三尺坊を拝み昔から相次ぐ火難を逃れようというのである。植松家の当主も喜んで秋葉の神影を迎えたので古びた寺が輝くようになった。
老いも幼きも馳せ参じ十句経を唱えて拝んだ。
願わくば、ここに参詣する者が、みなともに無上菩提を成ぜんことを

白隠記す